イタリアの歴史では、地中海に面したイタリア半島で起った歴史について記載する。
ローマ成立前
イタリア半島はアルプス・ヒマラヤ造山帯の活動によってできた。イタリアに人類が出現したのは旧石器時代とされる。
紀元前8世紀のローマの建設以前のイタリアの状況について判明していることは少ない。ただ一つの例外は、イタリア半島の先端やシチリア島など「マグナ・グラエキア」と呼ばれる地域に移住してきたギリシャ人の歴史であるが、同地域でのちに重要な都市となるシラクサやタレントゥム(現在のターラント)が建設されたのはローマと同じ頃である。
ギリシャ人は別として、他のイタリア半島の住人にはエトルリア人がいた。かれらの文明は現在のトスカーナ州を中心にその隣接地域にまで広がっていた。その他にも、ラテン人や現在のラツィオ州にいたサビニ人、またイタリア南部の山岳地帯、特にカンパニアやモリーゼにいたサムニウム人、さらにオスキー人やウンブリア人がいた。
ローマの時代
王政ローマ
伝説によるとローマは紀元前753年にロムルスとレムスによって建設された。初代ローマ王ロムルス以降、7代の王が王政によって統治されていたが(王政ローマ)、紀元前509年、7番目の王タルクィニウス・スペルブスが追放され、共和政ローマが成立した。
当時の共和国には二つの統治組織があった。一つは『パトリキ』と呼ばれる貴族の有力者や政治家たちによって構成される元老院で、もう一つは『プレブス』と呼ばれる平民階級で富裕な市民が中心となって運営される市民集会(民会)であった。貴族と平民の間の対立や紛争は共和国の重要な政治的問題となっていたが、元老院はいくつか譲歩をしながら、常にうまく乗り切っていた。
対外戦争による領土拡大
続く数世紀の間、ローマは領土の拡張政策をとり始め、ウェイイの町やラテン人、サムニウム人の同盟を次々と打ち負かしていった。
ローマは戦争に勝利した後もたいていは敗者を完全に服従させようとはせず、ローマの優位性を受け入れさせ、ローマを構成する同盟国として扱った。この賢明なやり方がローマが拡大できた理由の一つとなっている。たとえば、トスカーナやカンパニアにあったエトルリア人やギリシャ人の弱小都市は、ローマに立ち向かって戦争するよりも、ローマの保護を求める方を選んでいる。
紀元前390年には、ガリア人として知られるケルト人によってローマは侵入され、略奪された。
紀元前280年から紀元前272年にかけて、ギリシャ人の都市タレントゥムとの戦いに勝利したローマはイタリア半島を実質的に統一した。そして、最も危険な敵であったフェニキア人の植民都市カルタゴ(現在のチュニス近く)と対決することとなった。
紀元前3世紀半ばからほぼ1世紀を通じて戦われた3度のポエニ戦争は、ローマの完全な勝利に終わった。第一次ポエニ戦争(紀元前264年-紀元前241年)と第二次ポエニ戦争(紀元前218年-紀元前202年)により、カルタゴはシチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島、ヒスパニアの植民都市などほとんどの領土を失い、第三次ポエニ戦争(紀元前149年-紀元前146年)に敗北して都市は破壊された。
紀元前2世紀には、ローマは西地中海一帯のほとんどを支配するようになり、その影響力は急速に東方へと及び始めていた。紀元前1世紀、ローマはヘレニズムの流れを持ったアンティゴノス朝やセレウコス朝を滅ぼし、全地中海の覇者となった。
内乱の一世紀
ローマ共和国の統治機構は、都市国家のそれから生まれたものであり、広大な領土を統治するのに相応しい物ではなかった。元老院は領土が拡大される度に制度改良を行い諸問題に対処してきたが、大本が都市規模の国家を統治するためのシステムである以上、そうした改革にも限界があった。それゆえローマ領内において様々な歪が生じ始めたが、硬直化した元老院はこれに対し制度の抜本的改革ではなく、軍隊を動員しての抑圧という短絡的な手段で答えた。紀元前139年にローマを揺るがす大反乱が発生(シチリア島奴隷反乱)、騒乱自体は無事鎮圧されたものの、ローマにおける共和政は明らかな行き詰まりを見せ始めていた。この腐敗した共和政を改革するべくティベリウス・グラックスが護民官として制度改革を推進するが、その過程で元老院と対立し、紀元前133年、志半ばにして支持者達と共に非業の死を遂げる。紀元前121年、兄の志を継がんとした弟のガイウスもまた元老院と対立し失脚、数千人と言われる支持者達も処刑された。このグラックス兄弟の死と改革の頓挫は共和制ローマの混迷を決定的なものとし、これにより内乱の一世紀が始まる。
その後、軍人出身の執政官ガイウス・マリウスは上述の「歪」の一つである軍の弱体化と自作農の没落に対処すべく軍制改革(詳細はマリウスの軍制改革を参照)を行ない、軍の質的向上と失業農民の雇用確保に成功。またマリウスは自らの改革により精強さを取り戻したローマ共和国軍を率い、ゲルマニアからローマ領内へ侵入したゲルマン人の軍勢に大勝(キンブリ・テウトニ戦争)するなど、ローマの国防力再建に成果を挙げた。しかし軍内部でイタリアの同盟市民とローマ市民との待遇差が消えたため、彼らは同じローマを構成する住民として市民権の付与を求め始めるようになり、これを既得権益が失われると考えた元老院とローマ市民が拒絶したことで同盟市の大反乱を引き起こすことになる(同盟市戦争)。更に軍を構成する兵士が市民兵から職業軍人へ変化したことで軍からは世俗性が失われ、次第に議会や民衆よりも直近の上司である将軍達に忠誠心を抱くようになり、これは後に起きる内乱の一端となる。
紀元前88年、ついにローマ国内での内部対立はオプティマテス(閥族派)のルキウス・コルネリウス・スッラとポプラレス(民衆派)のガイウス・マリウスの軍事的衝突という内戦状態に発展し、ローマの混迷は頂点に達する。ローマ人の犠牲者は6年間で数万人となった。内戦に最終的な勝利を収めたスッラは独裁官となり、元老院の権限強化を進めた。
スッラの死後、ローマはスパルタクスを首謀者とする第三次奴隷戦争(紀元前73年-紀元前71年)を鎮圧したマルクス・リキニウス・クラッスス、オリエント一帯を征服した軍の実力者グナエウス・ポンペイウス、そしてマリウスの甥として頭角を現しつつあったガイウス・ユリウス・カエサルによる三頭政治へ移行する。三頭政治の一角を占めていたカエサルはガリア戦争(紀元前58年-紀元前51年)の成功によって名声を挙げ、クラッススの死後に起きたポンペイウスらとの内戦にも勝利、ローマの権力を一手に収めると終身独裁官となり急進的な政治改革を推進した。だがこうした大胆な改革と専制的な独裁は元老院を中心とする国内の共和派の反感を買い、紀元前44年3月、反カエサル派の元老院議員たちによって暗殺された。
カエサルの姪の息子にあたり、養子となってその後を継いだオクタウィアヌスはカエサルの腹心であったマルクス・アントニウスらと同盟を結んで共和主義者を打倒した。しかし、その後主導権を巡って両者の対立は深まり再び内戦へと発展してしまう。オクタウィアヌスはプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと組んだアントニウスを、紀元前31年アクティウムの海戦で破った。これにより内乱は終結し、約1世紀に渡る混迷に終止符が打たれた。
ローマ帝国の誕生と「パクス・ロマーナ」
紀元前27年、オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥスとプリンケプス(第一の市民)の称号を送られ、インペラートル(この時はローマ軍団の最高司令官という意味)となった。
アウグストゥスは、共和政をないがしろにすることはなかったが、実質的に皇帝として統治したため、これよりローマ帝国が誕生したとされる。実際に帝政がより明らかになるのは、アウグストゥスの養子ティベリウスが後を継いでからである。
帝国の成立はその属州に平和と安定をもたらし、属州は帝国に繁栄をもたらした。それとともにローマ市民権もゆっくりと属州に広がり、法規も不完全なものが多かったが、行政官による恣意的なものではなくなった。
ローマ帝国の版図もさらに拡大された。最も顕著なものは、47年の皇帝クラウディウスによるブリタンニアの征服である。
1世紀は、ほとんど内乱と暴動の鎮圧に費やされた。「四皇帝の年」として知られる内戦中にユダヤ属州で起きたユダヤ人の暴動以外にも、ゲルマン人やダキア人、カレドニア人や東方の大国パルティアとの戦争が相次いだ。
2世紀の前半は、トラヤヌス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスら五賢帝と称される皇帝による治世の下、帝国は最盛期を迎えた。 歴史家のエドワード・ギボンは、もしもその状況が見かけほど良くなくても、人びとにとっては最も平和な時代であっただろうと述べている。(パックス・ロマーナを参照)
古代ローマの終焉とその後の混乱
実際に帝国内部の状況、特に経済は徐々に悪化しつつあったが、3世紀に入ると異民族の侵入や内戦がそれに拍車をかけ、帝国を崩壊へと導いた(3世紀の危機)。
皇帝ディオクレティアヌス(在位284年-305年)やコンスタンティヌス1世(在位306年-337年)により、帝国の再建が試みられた。コンスタンティヌス1世は、内戦においてキリスト教徒の助けを借りたこともあり、313年ミラノ勅令を発してキリスト教を公認した。380年には、テオドシウス1世によってキリスト教が国教とされた。
395年テオドシウスの死去に伴い、それぞれミラノ(後にラヴェンナ)とコンスタンティノポリスを首都とする西ローマ帝国と東ローマ帝国に分割統治された。
395年テオドシウスの死去に伴い、それぞれミラノ(後にラヴェンナ)とコンスタンティノポリスを首都とする西ローマ帝国と東ローマ帝国に分割統治された。
410年にローマが略奪されたのに続き、476年ゲルマン人出身の傭兵隊長オドアケルによって皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位させられる。オドアケルは西皇帝の帝冠を東ローマ皇帝ゼノンへと贈り、西ローマ帝国は滅亡した。なお東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は、その後も1000年にわたって存続した。
5世紀に入ると東ローマ帝国を荒らしていた東ゴート族の王テオドリックが、ゼノン帝の命を受けてオドアケルを倒し、東ゴート王国を建国し、東ローマ皇帝の代理という名目で統治を行った。また、シチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島はアフリカからのゲルマン人であるヴァンダル族に征服された。
6世紀には旧西ローマの再統一をもくろむ皇帝ユスティニアヌス1世が将軍ベリサリウス率いる軍を派遣し、まずは北アフリカに居座るヴァンダル族を滅ぼした。続いて東ゴートの王位継承に異を唱えて再びベリサリウスを派遣するが(ゴート戦争)、勝利を収めたベリサリウスをすぐに本国に召還するなどして戦役は長引き、最終的に554年には将軍ナルセスがゴート族を打ち破り、イタリア全土が東ローマに統一され、イタリアはローマ帝国領となった。しかし、20年のイタリア全土を巻き込んだ戦闘、および東ローマによる圧政は住民や土地を著しく疲弊させただけであり、さらにローマ帝国とは言うものの、当時の帝国の中心は東方へ移っており、イタリアは単なる一地方に戻されてしまった。
ユスティニアヌスが没して間もない568年、ランゴバルド族のアルボイーノが北イタリアに侵入し南端を除くイタリア半島を征服しランゴバルド王国(ロンゴバルド王国)を建国した。ただし、東ローマの総督府がおかれたラヴェンナから、教皇の居るローマにかけての南北に細長い部分は、8世紀初頭まで征服できなかった。こうして後の教皇領となる部分が出来上がった。
774年、フランク王国のカール大帝はローマ教皇の求めに応じて北イタリアに侵攻、ランゴバルド王国を滅ぼし、イタリア北部をフランク王国に組み入れた。800年には西ローマ皇帝として戴冠したが、このことが神聖ローマ帝国の由来となる。
中世
5世紀以降、イタリア半島は東ローマ帝国やゲルマニア地方の諸民族、アラブ人などの外国勢力の侵略を受け、また外国の勢力に後押しを受けた小国、公国、王国が乱立し、相争う状態に陥ったことで政治的な統一性は失われていった。ゲルマン人のランゴバルド族は、北部のランゴバルド王国のほか、スポレート公国、ベネヴェント公国を支配したが、前者の二つはフランク王国に併合された。ベネヴェント公国はランゴバルド王国の滅亡後、ベネヴェント侯国と称し、サレルノ侯国やカープア侯国を成立させた。南イタリアではビザンツ帝国からナポリ公国、アマルフィ公国、ガエータ公国などが独立した。 そのような状況下でカトリック教会は唯一安定した組織だと見なされ、大きな政治権力を握るようになった。ローマにいる教皇はイタリアの一部を直接統治していたが、その影響力はイタリア全域にとどまらずキリスト教化されたヨーロッパ中に及んでいた。また9世紀以降、イタリアをみずからの領土だと主張する神聖ローマ帝国と教皇の対立により、イタリア半島はしばしば戦場となった(教皇派と皇帝派の対立)。
11世紀初頭になるとイタリア中部や北部の都市、特にヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェなどが海運や商業によって繁栄するようになり、名目上は神聖ローマ帝国の傘下にありつつも、実質的には独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展する。12世紀には北イタリアの都市国家群がロンバルディア同盟を組織し、イタリアでの実権を「バルバロッサ」として知られる皇帝フリードリヒ1世から防衛している。
一方、アラブ人や東ローマ帝国に支配されていたイタリア南部やシチリア島では、ローマ教皇の求めでロベルト・イル・グイスカルドをはじめとするノルマン人のヴァイキングが征服を行い、1130年にオートヴィル朝シチリア王国が成立した。シチリア王家と神聖ローマ皇帝(ホーエンシュタウフェン家)の政略結婚により両家の血を引くフリードリヒ2世が成人すると、イタリア半島統一の意志をあらわにした。しかし、ロンバルディア同盟などの反抗によりフリードリヒは統一を果せず、子孫がその意志を継いだ。
皇帝によるイタリア統一を危惧したローマ教皇は、フランスの手を借りた。フランスは王弟シャルル・ダンジューを送り込み、1266年にフリードリヒ2世の息子マンフレーディを倒し、シャルルはシチリア王カルロ1世として南イタリアを支配した。
1282年、フランス支配に不満を持ったシチリア住民は、シチリアの晩祷と呼ばれる反乱を起こし、シャルルをナポリに追放、マンフレーディの娘婿にあたるアラゴン王ペドロ3世に庇護を求めた。このことによりシチリア王国は2つに分裂し、半島側はナポリ王国と呼ばれることとなった。
ルネサンス期
北イタリアのコムーネは、シニョリーア制から君主制である公国などへと変化し、近隣諸国との紛争を繰り返していた。コンドッティエーレと呼ばれる傭兵隊長が君主に仕え、領土の奪い合いを行った。
そんな中、フィレンツェ共和国のメディチ家や、ローマ教皇、各国の君主は芸術を保護し、ダンテやジオット、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロといったルネサンスの巨匠たちによって偉大な文化的・芸術的業績が成し遂げられた。この黄金時代は、16世紀にフランスやスペインなどの大国にイタリア諸都市が次々と併合されることで終わりを告げた(イタリア戦争)。
1435年、アンジュー家のナポリ女王ジョヴァンナ2世が、ヴァロワ=アンジュー家のルネ・ダンジューを後継者に指名して死去した。しかし、シチリア王でもあったアラゴン王家のアルフォンソ5世が反発し侵攻、1442年にナポリ王となった。1494年、フランス王シャルル8世は、ヴァロワ=アンジュー家からナポリ王位を継承したと主張、イタリアに侵攻して1495年にナポリ王となった。しかし、フランチェスコ2世ゴンザーガ率いるミラノ公国とヴェネツィア共和国の同盟軍にフォルノーヴォの戦いで敗北し撤退、同年ナポリはアラゴンの手に戻った。
1499年にはフランス王ルイ12世が侵攻、ミラノ公国を占領し、翌年ミラノ公位を奪取した。これに対し教皇ユリウス2世は神聖同盟の結成を行い、フランスを追い払うのに成功した。
宗教改革と反宗教改革(対抗改革)
外国による支配の時代
16世紀初頭、主要な通商路が地中海から大西洋に移ってしまったことで、イタリアは経済危機に見舞われていた。さらにイタリアを舞台にしたイタリア戦争が頂点に達し、イタリアのほとんどの弱小国家はスペインなどの外国勢力に敗れた。ミラノ公国やナポリ王国は併合され、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、フィレンツェ共和国(のちのトスカーナ大公国)等は生き延びたが、弱体化して行った。
宗教改革と教皇の軍隊の敗北により、教皇権の重要性は失われ、カトリック教会もまたひどく弱まった。カトリック教会は宗教改革の波及を防ぐために、スペイン国王兼神聖ローマ帝国皇帝カール5世やその後継者たちの戦争を支持し、対抗改革と呼ばれる自己改革をおこなって、教会生活における厳格な規律を設けた。
イタリアではジョルダーノ・ブルーノが異端の宣告を受け、火あぶりの刑に処された。他にもトマソ・カンパネッラや天文学者のガリレオ・ガリレイも異端を宣告された。カトリック教会によるこのような新しい知識や文化への締め付けは、その経済危機とも相まって、イタリアの文化的先進性を喪失させた。その結果イタリアは数世紀の間凋落の一途をたどらなければならなかった。